イデアその2

早い話が最近の音楽業界って空回りが多いですね、何故原点回帰しないのかな?と疑問に思ってることを延々と書いてるだけなんですけども。つまり私のような音楽業界の全体像も把握できてない楽器もほとんど弾けない(最近ウクレレを練習中w)素人にでも業界の焦燥感みたいなものが伝わってくるのって不味くないですか?
プラトンの言葉を借りて昨日の日記で「美」の概念と「美しいもの」は圧倒的に違うと書きました。人間が想像できる完成形として使われる「美」と日常的に物質が混入してしまい、常に変化(主に劣化)の危険にさらされる「美しいもの」。ここでは前者をプラトンがいうように"イデア"(理想、本質)と呼んで後者をコピーと呼ぶことにしますw
対象つまりお気に入りのアーティストに私達はイデアのようなものを植えつけられていると思います。「彼(彼女)は本来こうあるべき」というような言葉では上手に表現できないあの感じですね。当然これは「美」という抽象的なものではなくファン1人1人捉え方はそれぞれ少しずつ異なっているはずです。そのイデアが強力で単純明快な人ほどプロデュースをしやすくまた人気も長期的に維持できる人ではないでしょうか。私達受け手側がミュージシャンに求めるものはまさにそのイデアでありコピーではありません
よく雑誌の取材等で「今回の新曲について一言」などで「新しい自分の一面を見てもらい」という記事を目にしますがそれは同じ本人が演じて歌っていても彼(彼女)のイデアが視聴者に届くことはめったにないと思います。ですから新しい曲調や分野に挑戦しても一過性の話題として片付けられてしまうことがほとんどでしょう。少し言いすぎかもしれませんがヒットしたとしてもそれはもうミュージシャンとファンの妥協の上に成り立っていると。私はたとえ当事者であっても決してそのイデアには触れることはできないものだと確信しています
イデアを頂点とした二等辺三角形。片一方の点にはそのイデアを発信した本人、もう片一方にはファンという図形がそこには形勢されていると思います。プロデューサーはその二等辺三角形の三辺の長さを短くしていくのが仕事ではないかなって思います。自分のイデアに少しでも近づこうと努力する本人、その姿が必死で可能性を予感できるからずっと応援したくなるファン。そんな状況を外から見守りながらどうすればそのミュージシャンが自分のイデアに近づけるか提示するのがプロデュース
最近の展開を見ているとすぐ別のイデアを提示して新しい三角形ばかり量産しているように映ってしまうんですね。たとえば小柳○○さんとかw彼女はカリスマチックなイデアを持っていると思ってたんですけどね
そして昨日の最後の文章に無理やり繋げますw
もちろん受けて側である私達も「知」を駆使してイデアに近づく努力をしなければいけませんし、ミュージシャン本人もファンと同様です。ファンも本人も自己の機能を発揮して、つまりお勉強してファンならばお気に入りの対象のイデアに、本人ならば美化された自分のイデアに近づく為に知識を身につけあるいは経験し、自分を高めることなくしては理想に追いつくことはできません
まあ決して追いつくことはできないんですけどね、三角形の3つの点が重なっちゃえばその瞬間に図形は消滅しちゃいますからねw

ここに参考資料として提示するのは失礼なんですが一応
相関社会科学
http://www.qmss.jp/qmss/interss/default.htm